麺教室へ行こうと思い立ったのは父親がうどんやそばが好きだったからである。でも作る機会があまりないままに、父親はだんだんうどんを食べなくなった。少し硬めにゆでたり、いやいや年寄りだから柔い方がいいのかも、と試してみたがやっぱり残す。父親はクモ膜下出血を起こしてから失語症になり筆記もできず、加えて年をとり耳も遠くなったために、コミュニケーションがほとんどとれなくなっている。長い麺がダメなのかとキッチンばさみでちょきちょきしたが、やはりダメ、お椀をはじめから脇へよけて、もうほとんど手をつけない。というか普通の食事もあまりとらなくなってきた。もの語らぬ父親は、首を振りただ手を横に振るだけである。僕は、うどんをだすのをやめてしまった。
そして、まもなく、父親の食事の準備をする必要がなくなった。 そればかりか、朝晩の血圧体温や体重の測定もしなくてよいようになった。
父親の環境が変わって、僕はさらに色々なことから解放されていった。ベッドの柵をつかんで、乗り越えようとする父親を押さえる必要がなくなった。病室を出るときに手を振らなくてもすむようになった。ほっぺたをつねっても、手で払いのけられる心配もなくなった。大工をしていた名残のあるごつごつした大きな手を握り返す必要もなくなった。数日後には、酸素マスクのずれを直す必要もなくなった。
夜通し詰めるつもりで荷物を持って病院へいったのに、数時間後には胸の動きを見守る必要もなくなった。そしてそして、最後は心電図のモニタを食い入るように見つめる必要がなくなった。というのも先程まであった不規則な波形が消え、いつまで見つめていようとも、ただまっすぐな横一線、緑色のラインが変わらずに、薄暗い部屋の中で光り輝き続けるだけだったから。
4ヶ月ほど前のできごとである。父親89才の誕生日まであと1ヶ月、という夏の暑い夜だった。
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