<平成24年3月のブログ>

迷える者は導かれる! が、しかし

平成24年3月30日

<イスラエル・ヨーロッパを旅した回顧録 その5>
聖地エルサレム旧市街を歩いた。イスラエル・ヨーロッパはどこもそうだったが、ここも石の街だった。知らない街を歩いて、普段見ることのできない風景に浸るのは、旅行の醍醐味の一つだ。
街中をウロウロする間に、地図をみても自分がどこにいるのかわからなくなってしまった。困ったホテルへ帰れない。そもそも道が碁盤の目のようにはなっていないので、あるいているうちに東西南北の感覚が崩れてしまうのだ。
誰かに聞こうにも、人にも出くわさない。でも人がいても言葉も通じるかどうかわからんわな。と思っていたら小学生低学年ぐらいの子供が三人遊んでいた。危険も漂わない。子供ならいいだろうと、地図を見せて聞くと、まかせとき、てな顔をして走り出す。ついてこいということか。子供達の後を追う。ところが、、、道ではないような、かといって他人の敷地でもない、とんでもない所を走っていくのだ。塀を乗り越え、壁の穴蔵を通り抜けて、えたいのしれないところを通り抜けていくのである。おい、おい、一体どこへいくんだ。のび太の大冒険じゃないんだ。暗黒面に入って行くわけではないが、得たいの知れない隙間や空間を疾走する。
しかしどうしてどうして、しばらくついて行くと、ちゃんとホテルへ通じる立派な道路へでたのだ。紀元前から現代へと、どこでもドア〜を利用して異次元空間をワープしたような気分だ。
さすが地元の子供だよな。助かった、ありがと〜、と笑顔でサンキューと言おうとすると、子供達も笑顔で手の平を出してきた。
共に満足するには思し召しがいるということだよね、単なる親切というわけではなかったようだ。

(注意:右上の写真に、地元の子供は二人しかいない)
エルサレム

きさま、な、名を名乗れ! 名前を名乗るほどの者ではありません

平成24年3月23日

<イスラエル・ヨーロッパを旅した回顧録 その4>
テルアビブからエルサレムへ移動した。初日エルサレムで、ヒルトンホテルのレセプションに参加した。黄色い顔の人間はいない。顔色の違う奴がいるから、と思ったのか、何やら話しかけてくる奴がいる。
どこから来た、何て名だと聞かれて「Japan、Yoshio(ヨシオ)」だと返事すると、聞いた人は皆一様に「おお〜いい名だね」という。反応が大げさな人もいるので何でだろうと思っていたら、教えてくれた人がいてわかった。
「ヨシオ」は「ヨシュア」に音が通じるのだ。 旧約聖書に「ヨシュア記」なるものがあるが、ヨシュアはそう、神からユダヤ人に約束されたという地カナンを征服し、ユダヤ人の国を作った大指導者だ。
なので、例えば、パナソニックの社員の集まりで「僕は幸之助です」と言ったようなものだ。
あるいは慶應義塾で「諭吉と申します」と淡淡と語ったようなものとも言える

いやいや高知で「龍馬じゃ」と仰々しく言ったようなものか。
それともAKBファンクラブで「私あっちゃんで〜〜す」と叫んだようなものかもしれない。
おおオレは何と恐れ多い名を語ったものか。

旅行けば〜ジュディオングでも口ずさみますかぁ

平成24年3月16日

<イスラエル・ヨーロッパを旅した回顧録 その3>
アテネでせっかくだから現地の観光ツアーに参加しようと上司が行った。まあ時間もあるし、断る理由がないので、一緒にバスに乗り込んだ。タップリのガイド付きなのだが、何言ってるのかさっぱりわからん。音楽だと思って聞き流す。そのうちバスは色々巡って、港についた。
眼前に広がるのは、言わずと知れたエーゲ海だ「♪ Wind is blowing from the Aegean♪」 
この海は2000以上の島を擁して、トルコとの間に横たわり、南に向かっては地中海へと続いている。古代ヨーロッパ文明の源といった地域である。 
さて、ここからはクルージングだ。小型船に乗り込んでエーゲ海へでる。海岸沿いの景色の良いところを通過した後に、沖合へでて船は陸地の見えない場所で碇を下ろした。そしたらなんたらタイムだというアナウンスが流れた。と、いきなりTシャツを脱いで海へ飛び込んだ奴がいた。何だ!しばらくすると、みんな思い思いの行動をとりはじめた。服のまま船の周りを泳ぐ若いにいちゃんやお姉ちゃん。デッキでくつろぐ輩。船からでているロープに掴まりながらぷかぷか浮いている水着のおばあちゃん。海水を帽子ですくってデッキにいる仲間にかける奴。このクルージングはこのエーゲ海での水遊びがついたツアーだったのだ。
上司が「君水着がないなら、僕をかしてやるぞ。心配するな買ってきた新品だ」と水着なんか持っていなかった僕に声をかけてきた。
「へっ」知らんかったよ、こんなこと。
もともと泳ぎなんて得意じゃない僕は焦った。プールに行くことはあっても、自慢じゃないが日本ですら海水浴なんてほとんどいったことがないんだよ。
しつこく言う上司に、考えた。この機会を逃したらエーゲ海に触れることなんてこの先二度となかろう。一生に一度だ、まあいっか、他人の海パンだけど。
さてところが、着替えの場所なんて用意されていない。この集団、着替える奴は人目を気にせずさっさと脱いでしまっている。男も女も、若きも老いも、だれも着替え場所なんて、スタッフに聞くことも、捜すこともしない。日本でなら着替える場所が用意されていないなんて、おかんむりだろう。異国のここでは着替え場所など必要ないのだ。みんな自由だ。
でもこちらが恥ずかしい。私は恥の文化日本で生まれ育ったのだ、とカッコつけてもしかたない、さりげに物陰でそそっと着替えて、意を決してクルーズか紺碧の海めがけて飛び込んだ。
水が全くダメで海に入るなんてとんでもない、という船上の上司は、エーゲ海に浸りピースサインを出す僕に向けて、よしよしとばかりにカメラを構えた。

赤矢印が乗車した船
エーゲ海

旅は道連れ 隣空いてます

平成24年3月9日

<イスラエル・ヨーロッパを旅した回顧録 その2>
アテネはイスラエルに入るための経由地であった。そのアテネでの話をする。
アテネの空港から、タクシーでホテルへ向かう。上司が運転手にホテルの名前を書いた紙を渡した。
走り出してしばらくすると運転手さんはつっ〜と車を道路の端に寄せて、歩道に立っている人に声をかけ何やら話している。オイオイ、ホテルへの道がわからなくて聞いているのかぁ。新人さんかな。ちゃんと行ってほしいなあ。道がわかったのか、すぐにじゃあとばかりに手を振って歩道の人とはサヨナラ。ところがまた車を寄せる。今度はおばさんと話し込んでいる。ふ〜む、知り合いなのかな。長々話をして、おっと、乗り込んできたよ、このおばさん。えっ、知り合い乗せちゃうの。お客の僕らが乗ってるんだけど!!と間抜けなことを思っていたら上司が教えてくれた。ここでは、お客さんが乗っていても、席に余裕があって、既に乗車している客と行き先方向が一緒なら、次の客も乗せてもいいんだよ。タクシーは相乗りなんだ。
そっか、そうだったんだ。ということは道を聞いていた、と僕が勝手に思っていた最初の人も、タクシーに乗りたいお客さんだったんだ。行き先が別方向なのか乗車が成立しなかったんだな。
後から乗り込んできた客のためにちょっと遠回りってこともあるよなあきっと。でも、我々は新たな客が乗っても乗らなくても、遠回りされたってわからんわな、アテネの町。新たな客が乗り込んで、「やられた」とはっきりわかるのは、空港に舞い戻ったときぐらいだね。

話は変わるが

平成24年3月2日

<イスラエル・ヨーロッパを旅した回顧録 その1>
解説:昭和61年 ヨーロッパ・イスラエルを旅した。
(初めての海外旅行はシンガポールで、これは二度目の海外旅行だった。)

テルアビブ空港に降り立ったことがある。何年前だったろう25年ぐらい前か。
大学卒業後2年目の夏、エルサレムへ行く上司のお供だった。エルサレムはご存じ、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の3大宗教の聖地、イスラエル国の都市である。
エルサレムには空港がなく、空路の経由地はテルアビブだ。日本からテルアビブ直通便なんてないので、アテネからテルアビブへ入ったのである。
僕たちの乗ったアテネからの飛行機(乗客に日本人らしき人は我々2人だけだった)はテルアビブ空港到着した。階段タラップを降りていくスタイルだ。機外へでて、僕が目の当たりにしたのは、イスラエルの若き女性だった。その彼女はカーキ色の軍服を身にまとい、銃口をこちらに向けていた。不審な行動があれば、やるよ、ってな厳しい目つきだった。ぞろぞろと乗客がターミナルビルに入るまで、銃を持った彼女は我々を監視していた。
空港ビルに入って、壁にはモニュメントらしき画があり、これは日本赤軍による乱射事件の画だと、上司が教えてくれた。臥薪嘗胆、我々はこの恨みを忘れないよ、ということだ。事件後10年以上はたっていたと思うが、日本人はどう思われていたのだろう。
飛行機を降りたら色々取ろうとカメラを持っていて、取りたい光景は山ほどあったが、びびってしまいカメラを出すことすらできなかった。

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