<平成24年7月のブログ>

<イスラエル・ヨーロッパを旅した回顧録シリーズは月はじめ1回ペースでしばらく続きます。>

そんなんあっても誰のかわからんやろう

平成24年7月27日

家人が参加した「2012夕涼みRUN in大阪城公園・7月」の事務局からゆうパックが届いた。開けてみると、何と!賞状だ。エントリーした1時間女子の部で2位だった。7月14日夕刻、大阪城内を華麗に、カモシカのように草を食んだわけだ。間違えた、カモシカのように疾走したわけだ。
大阪城夕涼みラン

2位といえば、あっちゃんに次ぐ、大島優子。古いな。
日本武道館で2位と叫べば、今年は渡辺麻友だ。
今、大阪城お堀端で叫べば、家人となる。
大阪城夕涼みラン賞状

ちなみにゆうパックには、内容物「衣類」と書かれていた。
「衣類」にはわざわざ赤マーカーが引かれている。

Run3

送られてきたゆうパックのそれを見て、家人はやってしまった!と思ったそうだ。どこかで下着を落としたか、忘れたかしたのをわざわざご丁寧に送ってきてくれた、、、、
そんなハズなんてなかろう。送られてきたのは賞状と副賞のトレーニングパンツ。「衣類」が同梱だったのだ。


アラ、いや〜、その〜、、、、、ハイッ!お勤めご苦労様です

平成24年7月20日

妹の話である。
彼女は夏の暑い日に大きな麦わら帽子をかぶって自転車に乗っていた。急いでいたので少しスピードを出していた。と、風にあおられて、つばの大きな麦わら帽子が飛んでいきそう、になった。あわてて、帽子が飛ばないように片手で帽子を押さえた。ちょうどその時、彼女の向かいから自転車に乗った若いお巡りさんが近づいてきたところだった。
彼はハッと、指先をピンと伸ばした敬礼をして返してきた。

二分の一を極める

平成24年7月13日

頂き物のゼリーが冷蔵庫に入っていた。最初に見つけたのは三男だった。一人っ子なら、他を気にする必要がない。子供は自分一人、当然食べて良いと思うだろう。しかし我が家は子供が四人。家人も加えたなら、食べ盛りが五人だ!部活帰りの三男は慣習にしたがい、「このゼリー食べていいの?」と聞いてきた。そうだ、「食べていいの?」と「何個(あるいはどれぐらい)食べていいの?」は兄妹がいる家庭ならではの質問だ。

「いいけど、三つしかないから、家族六人で食べるなら、一人半分ずつやなぁ」半分でも食べて良いのならと、マンゴーゼリーを選んで食べ始めた。
「おとうちゃん、これゼリーの中に果肉の塊が入ってるわ。でも上半分に一個しかないな」
「じゃあそれも半分にする?」
マンゴー果肉を半分にした三男だったが、ふと気がついたように、「この果肉半分にしたら、上半分の人はその分ゼリー損やな」
「ほな、下半分からその分のゼリー食べたらいいやん」
ゼリーの入った容器は優勝トロフィーを縦に少し引き延ばしたような上下非対称なので、正確な半分なんてわからない。適当な半分で良いのに律儀なヤツだ。

次に見つけたのは次男。同じ事を聞いてきた。
「一人半分。ちなみに最初に食べた輩は果肉も半分にしとったわ」
「ふ〜ん」
ゼリー上半分食べ始めた次男だったが、「これ果肉ないで。あっ下の方にあるわ。これほじっていい」
こういうことに頓着しない次男は下半分ゼリーを浸食しながらチェリーを半分取り出していた。
ちなみに長男はというと、下の兄妹が食べてからでいいよ。そのスタンスたるやまさしく長子のそれである。

夕食の支度を続けていると、末っ子長女が帰ってきて、グレープフルーツを選んだ。あれ、三男の残した下半分ゼリーがあったハズなのにどこにいったのだろう。疑問符をつけて冷蔵庫を捜していると、ゼリーを半分食べ終わった長女が「おとうちゃん残りいる?」じゃあ、それでもいいや、と受け取って見ると、何と縦半分に食べている。「うわっ」と驚くと。真面目な顔で「だって、上と下で形が違うから半分にしようとしたらそうなるやん」確かに、容器はトロフィー形状だから、ま半分にするには縦割だよな。う〜ん、定規こそ使わなかったが、理系少女は厳格だった。

それはそうと、最初三男が食べたゼリーの残り半分はどこいったんかなぁ。行方不明だ。と、五人目が戻ってきた。聞くと「パッケージがあいてたから、食べてん。あかんかった?」
二分の一を極めようとした匠達の心意気、とは無縁な世界もある。


聞かずに訪れてはいけない

平成24年7月6日

<イスラエル・ヨーロッパを旅した回顧録 その9>
さて、イスラエルバスツアーは死海に続いてマサダというところにやってきた。
私はこのマサダについて、知る限りの範囲だが、その歴史物語について語らなければならない。話は少し長くなる。

ローマ時代の話である。
イタリアの一都市であったローマはその版画を広げ、地中海を中心にヨーロッパで覇を唱えており、ユダヤ人の住むカナン(現イスラエル)をも勢力下においていた。
長らくローマ帝国の支配が続いていたユダヤ人の土地であったが、圧政に耐えかねたユダヤ人に反乱が生じた。ローマ皇帝ネロはこの反乱を鎮めるべく三個軍団の兵を差し向けた。ユダヤ戦争と呼ばれる戦いが勃発した。ローマ側では皇帝ネロの死、ユダヤ側では内紛などが生じて、紆余曲折があったものの、紀元70年ユダヤの神殿は炎上し、エルサレムは陥落する。ところがエルサレム陥落後も、ローマ軍門に下らず、残党ユダヤ人が立てこもったのがマサダである。

マサダは周囲の峡谷からそびえ立つような岩山(390m)である。その頂上に建設されていたのがマサダ要塞で、ユダヤの王様ヘロデが築いていた要塞であった。ここに千人足らずのユダヤ人が立てこもった。それに対して、残党を駆逐すべく2万余のローマ軍がこれを取り囲んだ。しかしすぐには攻め立てることができなかった。
頂上周囲に城壁が張り巡らされたマサダの岩山はプリンのような形上をしており、山の周囲は急峻。要塞に近づくには、頂上へ通じる東西2本の道を利用するしかなかった。東側からの岩肌の道は「蛇の道」と呼ばれ、その名の通りつづら折りで、踏み外せば渓谷に落ちて行く。このような道では大軍が数に任せて攻め立てることができない。一方、西側は100mの高低差で、東に比べると緩やかにはなるものの、道幅がもっとも狭まる場所には砦が築かれている。ここを突破しないと先へは進めない。かくかように、このマサダは自然の地形を利用した難攻不落の要塞だったのだ。しかし所詮籠城じゃないか、包囲されて援軍がなければ、食料が枯渇してしまうぞ、と考えるのは至極当然である。
ところがどっこい、従前に兵器や食糧が運び込まれていた上に、この岩山の頂上は600m x 300m程の面積を有し、比較的平坦で土壌も柔らかく、耕作可能だったという。さらに雨の多い地域ではないが、頂上には降った雨を効率よく集積できる工夫がしてあり、水の確保も可能なのだ。まさしく、空中要塞都市と形容すべきものだった。

この要塞に立てこもったユダヤ人とローマ軍の争いはどうなったのか。

先ほど述べたような要塞マサダ。当然のごとくローマ軍はこの要塞を攻めあぐんだ。しかし、ローマは撤退しなかった。
まず2万余のローマ軍は近辺に陣営を構え、この岩山の周囲を塀で囲い、岩山を物理的に孤立させた。そして、高低差の少ない比較的なだらかな西側から岩山の頂上へと、恐ろしいことに「道」を作ったのだ。なだらかといえでも100mの高さ。これは通天閣程の高さなのだが、ローマ軍勢はその高低差をものともせず、進軍可能な道を作りあげ、要塞攻略の準備を整えた。そうしてさらに、頂上の要塞城壁に相対する場所へ数十mの塔を建てた。つまり要塞城壁に対抗できる高さをローマ軍は得たのだ。この塔を利用してローマ軍は砲や投石で高所から攻め立て、要塞城壁上部から攻撃されるのを防ぎつつ、大型仕掛け装置である破壊槌で城壁を破壊すべく、これを打ち続けた。

上記の隧道を作り上げ、城壁を打ち崩した土木工事集団ローマ軍はついにマサダの要塞へと突入した。が、土木工事のために汗を流したローマ軍勢ではあったが、血を流すことはなかった。

何故か。

時間をローマ軍突入前に戻さねばならない。要塞内部はどうなっていただろう。

孤立したユダヤ人を援護する軍勢はなかった。
外部からの侵入者を拒んでいた絶壁であったが、これは追い詰められた内部からの逃げ道も失わせていた。
城壁の外側では、人や兵器を集結させたローマ軍が大型兵器を用いて要塞城壁を崩しつつあった。
ローマは攻撃の手を緩めることなく迫ってきていた。
ローマ軍勢は舌なめずりをして侵攻の時を待っていた。

城壁を崩さんと打ち付けられる破壊装置は、その轟音を城壁内部へ鳴り響かせたであろう。
その轟きは恐怖にすくむ者達の耳をつんざき、また心臓の鼓動を高鳴らせたであろう。
ローマの火矢から燃えさかる炎は壁に突き刺さり、おびえる顔を照らしつけ、残る気力を焦げ付かせたであろう。
幼い子に手を握りしめられても、これを守ることはできない。

突入が目前にせまり、抵抗してきた者達の協議がもたれ、運命の決断がなされた。
ついに男達は剣を取った。
男たちが手にした剣は、しかし、敵兵に向かうことなく、彼らが愛する妻や子の血を吸った。
くじによって選ばれし者達が、そして、同胞に手をかけた。
残った執行者達は要塞に火を放って飛び込むや、燃えさかる炎を身にまとった。火柱は風にあおられ、勢いづいた炎と共に高く舞い上がり、神のもと天空へと昇り上がった。
昇る彼らは眼下のローマ兵をあざ笑っていたのかも知れない。
神以外には、ましてやローマなどには従わぬことを選んだ彼らは、自らをこの世から解放した。
エルサレム陥落から3年後のことであった。

ローマ軍が侵入した時には、数人の女子供がこの世に息をとどめていただけだったという。

これが、我々が訪れた土地マサダの歴史物語である。

ヨーロッパを席巻した強大な帝国ローマに屈っせんと抵抗したユダヤ人の魂がここに眠る。周囲をアラブの国々に囲まれながらも、現在、独立を維持するユダヤ人の国がある。

マサダの地を訪れた者は、ユダヤの魂を見ずに、この地を去ることはできない。

マサダ
右下はマサダ山頂から眼下に見えるローマ陣営跡

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